ショート・セリング(short selling)は、ヘッジファンドの代表的な運用手法の一つです。これは、ファンドが保有していない株式を証券会社やプライムブローカーなどから借りて売却し、その後、株価が下落したタイミングで買い戻して返却することで、株価下落による差益を狙う運用方法です。
この手法を主軸とするヘッジファンドはショート・セリング・ファンド(空売りファンド)と呼ばれます。なお、空売りを一部活用する戦略としてはロング・アンド・ショート戦略やマーケット・ニュートラル戦略などがあります。これらは、買い持ち(ロング)と売り持ち(ショート)のポジションを組み合わせることで、市場全体の動向とは独立した収益を目指します。
一方、ショート・セリング・ファンドは基本的に売りポジションを中心に構成されており、株価の下落によってのみ利益を獲得しようとする点に特徴があります。また、Dedicated Short Bias Funds(ショート・バイアス型ファンド)と呼ばれるファンドもあり、こちらは一部ロングポジションを持ちながらも、ファンド全体としてはショートの比重が高い構成をとっています。
これらのファンドは、企業の業績に比して株価が過大評価されていると判断される銘柄や、財務内容などに問題があると見なされる銘柄を空売りの対象とします。空売りした株式を安い価格で買い戻すことによって利益を上げるため、一般に相場が下落傾向にある「弱気相場」では注目度が高まりやすいとされています。
ただし、ショート・セリングには特有のリスクがあります。株価の下落幅には限界がある一方で、株価の上昇には理論上限界がありません。そのため、空売りした株が予想に反して上昇した場合、損失が青天井になるリスクがあります。この点で、ショート・セリング・ファンドはロングポジション主体のヘッジファンドよりも高リスクと評価されることがあります。
日本の公募投資信託における空売りとロング・アンド・ショート戦略 #
日本の公募証券投資信託においては、株式の信用取引(売付を目的としたものに限る。)
を行うことは投資信託協会の「投資信託等の運用に関する規則」において認められています(2025年6月現在)。ただし、リスク管理の観点から、次のような規制が課されています。
- 空売りによるショートポジションの時価総額は、ファンドの純資産総額を超えてはならない。
- 空売りによって得た資金とファンドの他の資産を合計した投資割合が、一定の規制を超えないよう制限。
- ネーキッド・ショート・セリング(株式の借り入れなしに空売りする行為)は、禁止。
このような規制のもと、日本の公募投資信託では、空売りのみを行う「ショート・セリング・ファンド」は存在していません(2025年5月現在)。
ロング・アンド・ショート・ファンド #
一方で、ロング・アンド・ショート戦略を採用するファンドは存在します。これらのファンドは、株価の上昇が見込まれる銘柄を買い(ロング)、株価の下落が見込まれる銘柄を空売り(ショート)することで、マーケット全体の動きに依存しない収益の獲得を目指すものです。
ただし、公募ファンドでこの戦略を採用する場合も、空売りポジションの上限や、デリバティブ取引の活用に関する規制が存在するため、海外のヘッジファンドのように自由度の高い運用は難しい側面があります。また、実際の空売りではなく、指数先物やオプションなどを使ってショートポジションに類似の経済的効果を得る手法も使われています。
2025年6月現在運用されているショート・アンド・ロングファンド
ブラックロック・アメリカ大陸ロング・ショート・ファンド(ダイワ投資一任専用)
歴史的事例と規制の強化 #
ショート・セリングが注目された代表的な事例が1992年のポンド危機です。このとき、ジョージ・ソロスをはじめとするヘッジファンドが英国ポンドを空売りし、結果としてポンドは欧州通貨制度(ERM)からの離脱を余儀なくされました。ソロスは、推定100億ドル相当のポンドを空売りして、わずか1日で約10億ドルの利益を得たとされています。
その後、2008年のリーマン・ショックを契機に、多くの国で空売り規制が導入・強化されました。特に、ネーキッド・ショート・セリング(naked short selling)、つまり株式を借りずに空売りを行う手法は、リスクが大きいため、日本を含め多くの国で禁止または厳格な規制対象となっています。
日本における空売り規制 #
日本における空売り規制は、株式市場の健全性と投資家保護を目的として、金融商品取引法やその関連法令に基づき整備されています。
空売り規制の主な内容
1. 空売り価格規制(アップティック・ルール)
価格規制は、株価の急激な下落を防ぐための措置で、特定の条件下で適用されます。
- トリガー条件:株価が前日終値から10%以上下落した場合、その銘柄に価格規制が適用されます。
- 規制内容:株価が前日終値より10%以上下落した銘柄には、当日の残りの取引時間中、全ての空売り注文に対して『直近価格以上でなければ発注できない』というアップティック・ルールが適用されます。
- 適用期間:規制は発動した当日から翌営業日の取引終了時まで継続されます。
この規制により、過度な空売りによる株価の下落を抑制し、市場の安定性を保つことが目的とされています。
2. 空売りポジションの報告義務
一定の空売りポジションを保有する投資家には、以下の報告義務があります。
- 報告基準:発行済株式総数の0.2%以上の空売りポジションを保有する場合、証券会社を通じて取引所に報告する必要があります。
- 公表基準:報告された空売りポジションが発行済株式総数の0.5%以上の場合、取引所はその情報を公表します。
これにより、市場の透明性が確保され、不正な取引の抑止につながります。
3. ネーキッド・ショート・セリングの禁止
ネーキッド・ショート・セリングとは、株式を借りずに空売りを行う取引を指します。日本では、これを禁止しており、空売りを行う際には、空売りを行う際は、事前に株式を借りているか、確保済みであること(locate requirement)が求められます。
海外における空売り規制 #
- EU(欧州連合)では、Short Selling Regulation(SSR)が2012年11月より施行されています。この制度はネーキッド・ショート・セリングの禁止や大口空売りの報告義務などを規定しています。
→ESMA(European Securities and Markets Authority )
- 米国では、空売り規制の基本ルール「Regulation SHO(レギュレーション SHO)などにより規制されており、以下の内容が含まれています:
- Locate Rule(株券確保義務)・・・空売り注文を出す前に、空売り対象となる株式の貸借先(借り手)を確保しておくことが義務付けられています。株を借りずに空売りする「ネーキッド・ショート・セリング」はこのルールに違反します。
- Close-Out Rule(買い戻し義務)・・・決済期限までに株券を買い戻さない(未決済)状態が生じた場合、一定期間内に強制的にポジションを解消(買い戻し)しなければならない。
- Rule 201(Alternative Uptick Rule)・・・リーマン・ショック後(2010年)に導入された価格規制。株価が前日終値より10%以上下落した場合、その銘柄についてはその日の残りの時間、直近の価格以上でしか空売りができない(アップティック条件)という制限が課されます。
最新の規制については、各国の規制機関のHPなどで確認してください。
日本のインバース型ETFと空売りの関係 #
日本のインバース型ETFは、株価指数などの下落に連動する値動きを目指す上場投資信託です。たとえば、日経平均株価が1%下落したときに、同じく1%上昇するように設計されています(2倍連動型の場合は2%上昇)。
このような運用成果を実現するため、インバース型ETFは「空売り」と同様の経済的効果を持つ手法**を活用していますが、実際に個別銘柄を借りて売却する「信用売り」そのものを行っているわけではありません。
空売りと同様の経済効果を得る手法 #
日本のインバース型ETFでは、主に以下のようなデリバティブ取引を利用して、指数の下落に対する正のリターンを実現しています。
- 株価指数先物の売建て(ショートポジション)
- 株価指数スワップ契約(インデックスの逆方向への連動を得る契約)
これらの手法によって、個別銘柄を空売りすることなく、指数の値下がり時に利益が出る構造を作り出しています。
なぜ直接の空売りを使わないのか? #
日本のETFは、法的には「追加型株式投資信託(公募投信)」として位置づけられており、投資信託協会の運用規則に従う必要があります。そのため:
- 空売りは「信用売付(売り目的に限る)」のみが許可されており、
- ネーキッド・ショートは禁止、
- 売建てポジションの時価総額は純資産総額を超えてはならない、
- 空売り資金の再投資も制限がある
といった厳格なルールがあります。
こうした制限のもとで、個別株の空売りによって指数に逆連動するリターンを安定的に得るのは困難であるため、より制度的に柔軟で、効率的に連動性を確保できる先物やスワップなどのデリバティブ取引が採用されているのです。
具体例
たとえば、以下のようなETFが該当します。
- NEXT FUNDS 日経平均インバース・インデックス連動型上場投信(証券コード:1571)
- NEXT FUNDS 日経平均ダブルインバース・インデックス連動型上場投信(証券コード:1357)
これらのETFの目論見書には、「日経平均株価先物取引を利用して、対象指数の変動に逆方向に連動する投資成果を目指す」ことが明記されています。
ショート・セリング・ファンドのまとめ #
ショート・セリング・ファンド(空売りファンド)とは、株価が下落することで利益を狙う「空売り」を主な戦略とするヘッジファンドです。過大評価された銘柄や財務に問題のある企業を空売りし、価格が下がった後に買い戻すことで収益を得ます。下落相場で注目されやすい一方、株価が予想に反して上昇すると損失が無制限に拡大するリスクがあるため、非常に高度な運用戦略とされています。