日本経済新聞「交遊抄」の執筆依頼を受けて考えたこと


昨年11月に、日本経済新聞の「交遊抄」の執筆依頼を受けた。「そうか、私に来たか」という思いとともに、いろいろなことを思い出した。

かねてから私は、「交遊抄」の欄の上に載っている「私の履歴書」よりも「交遊抄」に出たいと思っていた。

 

もちろん、「私の履歴書」執筆の依頼は、私のところには来そうもない。なにしろ、1957年生まれは1,566,713人(厚生労働省「人口動態統計」)もいて、「私の履歴書」の執筆を依頼されるような人物は、単純計算では、1,566,713人÷12月≒13万人だから、私が依頼されるには何度も何度も生まれ変わる必要があるし(そもそも、生まれ変わっても出生数が同じなら確率が変化するわけではないのだが)、私に執筆依頼が来るはずもないことは百も合点、二百も承知。

 

だからというわけでもないが、「交遊抄」狙いだったわけだ。これまた、執筆を依頼される確率は、1,566,713人÷365日≒4300人で、これとて、相当、難しいことには違いない。ありがたいことである。

 

しかし、私が「交遊抄」に出たいと思っていたというのは、“執筆”したいという意味ではない。書かれたかったのだ。特に、大学に勤めるようになって、私が死んだとき(もちろん、生きている間でもいいのだけれども)「林先生が亡くなられた。熱い先生で、現在の私があるのは、林先生の存在抜きには考えられない」などと書いてくれたら、もう死んでもいいと思う(すでに死んでいるのだけれども)だろうと思っていた。

自分が書く確率よりは、教え子をたくさん拵えて、彼らに書いてもらえば、登場の確率は上昇する――と考えていたわけでもないが、あるいは、そういうことを漠然と考えていたのかもしれない。というのは嘘で、やはり、そうではない。このことは、私が教育を志した話ともつながる話なのだ。私は、自らができる最大の社会貢献(というと大げさだが、社会への恩返し・恩送り)は何かと考えて、教師となったのだ。

 

閑話休題。

「交遊抄」執筆にあたっての選定の条件は、できれば一人、多くて二人しか取り上げないということ。あまり無名の人は困るということ。この二つ。(ついでながら、この条件は、私のほうから担当に電話して確認したにすぎず、後にわかったことだが、新聞社としての基準はないということのようだ)

 

最大の問題は、誰のことを書くかということだった。いろいろな思い、雑念が浮かぶ。ふと、「そうか、ノーベル賞授賞者の選考委員の気持ちはこういうことか」と思った。

 

「しかし、誰を推薦しようか。私が選考委員であることは、授賞候補者たちは、たいていご存知でもあるし、恨まれることはないだろうけれども、『なんだ、私ではないのか』などと思われはしないだろうか。なんか気まずくならないか」

「あちらを立てればこちらが立たず」

いろいろ候補が頭に浮かんでは消え、結局、誰にすればよいのか、悩む日が続いた。

いっそのこと、カーネマンとかユヌスとかにすればいいかとも考えたが、会ったこともないので、これはありえない話(クルーグマンは一度だけなら、会ったことはあるが)。

しかし、その立場になって初めて気づくことも多いということだろう。「交遊抄」に登場する人物に外国人が多いというのも、執筆者がさまざまに配慮した結果なのかもしれないということに気付いた。これは、日ごろ付き合いのある日本の居住者に気を遣わなくて済む。特別枠からの選出だからだ。

 

結局、マーケット関係者を取り上げることにした。ええい、ままよ。それで数人に絞り込む。蛙も蚯蚓も、みな、ごめん。そう決めた。

で、林則行氏になった。テクニカル・アナリストを取り上げたいという思いもあった。一番最初に浮かんだ人は、非常に有名で、既に交遊抄にも登場していた(まずいことに、私は、その人に交遊抄の話をしてしまっていた。この借りは大きいと思う)。

社会への恩返し・恩送りどころか、今回の執筆で、また、世の中に、借りを作ってしまったという気がする。兎角に人の世は住みにくい。

 

(私の寄稿は、2014年12月11日に、掲載されました)